JUGEMテーマ:日常
最近はポータルサイトでも動画サイトでも、
「あなたに関連のありそう」な広告ばかりが出てくる。
シニア世代だと、シミが消えるとか骨を丈夫にする…みたいな
実用的なものばかりで辟易している(汗)。
でも、Spotify(無料版)で
「あなたが好きそうな」曲を流してくれるサービスは嬉しい。
先日、竹内まりやのお馴染みの曲をいくつか聞いていたら、
「ドリーム・オブ・ユー」が流れてきた。
このタイトルよりも「レモンライムの青い風」っていう
CMフレーズのほうが記憶に残っている。
今や飲みものといえば無糖のお茶やコーヒーが主流だけど、
70〜80年代はコーラや炭酸飲料が中心だった。
熱中症予防とかカロリー過多とか、
そんな話がまだ出てこなかった頃。
で「ドリーム・オブ・ユー」を聞くと、
反射的に初夏の木漏れ日やバスケットのゴールを思い出す。
おそらく中学校の校庭のイメージだろうか??
ちなみに私はバスケ部ではなく、
友人たちに頼まれて
かっこいいバスケ部の先輩を撮影する写真部員だった(笑)。
Spotifyもそうだけど、
偶然、耳に入ってくる曲の心地よさって、
以前はラジオや有線が中心だった。
スマホなどで好きな曲を能動的に聞くのはもちろんいいんだけど、
偶然、耳に入ってくる曲が好きな曲だったり、
何かしら素敵な記憶と結びついている時の嬉しさはそれ以上!
今日はこの曲がよく似合いそうな五月晴れ。
お気に入りに加えてもう一度聞くことにする。
#竹内まりや
#Spotify
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JUGEMテーマ:日常
ガーデニングというほどメルヘンでもないし(汗)
多肉や観葉にこだわるお洒落派?でもない。
単に好きな植物の日々の成長を眺めて、
みずみずしい葉や
可憐に咲いた花に触れるのが好きで、
趣味のひとつに「草花」を挙げている。
今年で8年目になるわが家の細長い花壇に、
グランドカバーとして
ワイヤープランツを植えたのは3年前。
指先に乗るほどの
小さな丸い葉っぱが可愛い苗だった。
たしか一年前の今頃までは、
適当にカットして
花壇のバランスをとっていたのだが、
それ以降、仕事が忙しくなったり
外出する機会が多かったりで、
花壇に手をかける時間が急に減ってしまった。
それでも冬になれば植物の勢いが落ちるので、
まあ何もしなくてもいいか…と
思っていたのだけれど。
花壇は南向きで日当たりが良いせいか、
冬だというのに
急にワイヤープランツが勢いを増して、
バラの枝やクリスマスローズの葉を
覆ってしまうようになった。
これでは見た目もよくないし、
花壇が手入れされていない家は、
不審者が侵入しやすいと聞いた。
ネットで調べたら、
ワイヤープランツは「木」であり、
地植えにするとどんどん繁殖して
建物を覆ってしまうこともある…。
ええっ?
そこで今朝、思い切って
イヤープランツの撤去に乗り出し、
まず表面の枝と葉を切り落とした。
家庭用ごみ袋4つ分。
冬なのに汗ばむほどの肉体労働…。
しかし、まだ土の表面と土の中には
固い枝と強い根がぎっしり残っている。
これを撤去しないことには、
新しい植物も植えられない。
ワイヤープランツの一部は、
窓枠のサッシの下にも食い込んでいて、
なんだか怖かった…。
もっと歳をとって
花壇の手入れができなくなったり、
空き家になってしまったら、
あっという間に家は植物に覆われてしまう。
動物より植物のほうが手がかからない
…なんて思っていたら大間違い。
人間も動物も植物も。
とにかく「生きているもの」には
愛情を注いで、手をかけ、
目をかけてあげなくては、
思い通りには育たない。
生い茂るワイヤープランツと格闘して、
つくづくそう思ったのでした。
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先日アップした記事が手違いで消えていたので、再投稿。
毎朝通る近所の川の橋。
だいたい鴨さんたちが朝食?に集まっているので、
今日は大勢だな、今日は少ないな、とか、
橋の上に立ち止まって眺めることが多い。
晴天続きで水の流れが穏やかな日もあれば、
豪雨の翌日などは濁流がすごい勢いで流れている。
彼らが好むのはある程度の水流がある場所のようで、
川の流れに乗っかって、すーっと下っていく姿は楽しそう。
しかし、そんな彼らも弱肉強食の自然界の住人。
お正月にとある神社に初詣に行ったとき、
狭い池に鴨さんたちが数羽いて、
縄張り争いの激しいこと!
奇声を上げて、相手を突く姿からは
いつも眺めている穏やかなたたずまいは想像できない。
唖然として攻撃的な鴨さんたちを見る私に、
「もっと広い池や川に行けばいいんだよなぁ」とオット。
そうか。
いつも眺めている近所の川は一級河川でそこそこの川幅があり、
鴨さんたちは、ほどほどの距離感を保って餌を探している。
必要以上に相手のテリトリーに侵害しない。
これ、友人知人ならなんとかできそうだけど、
夫婦、親子という「家族」枠だと難しい。
特に同じ屋根の下に住んでいる場合。
特に最近は介護問題で
両親と同居している50代の方からの悩み相談が多い。
60代になると
両親もより高齢になって介護度が高くなって施設に入ったり、
亡くなられる方が多いので、その問題は減っていく。
ほどよい距離を保つ、といっても
各々事情や性格によってその手法は様々なので
一概には言えないが、
これについては、
折に触れてここにも書いていこうと思う。
何はさておき、
一定の距離を置いて
すいすいと川面を泳ぐ鴨さんたちの姿を眺められる日は、
なんとなく、朝から気分がよくなるのです。
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※ちょっと重い話を書いたので画像は明るくしてみました!
月1回のタロット占い講座では、
わたしが作るいろんな占い相談サンプルをもとに
(※あくまでフェイクです)
生徒さんが展開したカードを読む練習をするのだが、
ある生徒さんの発言に、なるほどと思った。
「恋愛や仕事の相談なら、
うまくいかなければ、別れて次の恋を、転職して違う仕事を、
…というリーディングやアドバイスができるけど、
親子関係は、次に行くことができないから難しい問題ですね」。
たしかに。
家族の中でも夫婦なら別れれば他人になる。
でも、親子と兄弟はそうはいかない。
最近は超高齢化社会を反映して
親の介護にまつわる
親子関係や兄弟姉妹関係のご相談が増えている。
「次に行けない」問題だから袋小路に入りやすいのだが、
そんな時こそ前回のブログに書いたように、
「ほどよい距離をおく」ことが解決策につながると思う。
「毎日、家で介護していて、距離を置くなんてできない、
母は施設に入らないと言い張っているし」…と悩んでいた方がいた。
ところが、その方はストレスもあったのか
生死にかかわる急病を発症して入院。
そして状況は一転。
身内の方が母親の施設入居の手続きを済ませていて、
ご本人が退院した時は、
介護から距離を置いて、
自身の療養に専念できるようになっていた。
これはちょっと極端な例だが、
「次に行けない」難しい家族関係の問題でも、
考え方次第で、
その問題を軽減することはできるのではないか?と思うこの頃だ。
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JUGEMテーマ:日常
タイトルは今年の自分を振り返って。
生きている限り、自分も周囲も時代も、止まることなくどんどん変わっていくんだなぁと特に強く感じた一年だった。
この度、十数年ぶりに当サイトを全面リニューアルすることになり、とりとめのないブログは続けるべきか?と迷ったのだが。
サイト制作を頼んだ長いお付き合いのディレクターGちゃんに、「せっかく12年も書き続けているんだから、これは残したほうがいいよ。 広告の仕事や占いの相談を頼もうとしている人が、この人はどんな暮らしぶりで、どんな考え方をしているのか知るきっかけになる」と言われ、なるほどと頷いた次第。
取り急ぎ、ヘッダーを変えてみた。「今日も明日も足どり軽く」は、最近の自分の心がけ。他のSNSのプロフにも書いている。
それなのに、ちっとも軽やかではないブログ更新の頻度…(汗)
★
最近思うのは、自分の実年齢(年代)がすっと体になじむまでには、ある程度の時間がかかるということ。
新年のあいさつなどで、今年はいよいよ40代、50代…という言葉をよく目にするが、それらの年代を既に通過した者として思うのは、例えば「ああ私は30代なんだなぁ」と実感したのは30代半ばになってから。40代、50代のときもそうだった。
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最近、占いのご相談でなぜか続いたのが、転職相談。
勤務先がいわゆる「ブラック」企業で、
モラハラ上司はいるし、サービス残業が多いし、退職者は多いし…。
この「ブラック」企業という言葉、いつ頃から一般化したんだろう。
おそらく、日本の景気が衰退して企業のコストカットが進み、
正社員が減って派遣社員が増えた頃から?
私はこのカタカナの「ブラック」という表現が嫌いだ。
「黒」という日本語に言い変えると、少しニュアンスが違ってくる。
東洋思想の陰陽の「陰」、日向と日陰、昼と夜。
日ごとに日差しが強くなる今の時期、日向と日陰のコントラストはくっきりと強く、
梢に揺れる青葉たちにも、はっきりと光の当たる部分、当たらない部分の差が出ている。
なぜそんなことに気づいたかというと、今春から水彩画を習い始め、
モノを観る時、ほんの少しだけど光と影を意識するようになったからだ。
そしてその光と影の差が、私たちの目に見えるすべてのモノに
立体感、奥行きを与えていることに改めて気づく。
そう。光だけ、明るいだけの世界はこの世のどこにもないのだ。
しかし、そういった世の中の陰陽のグラデーションを、
じっくりかみしめる機会が減っているのは否めない。
スマホやパソコンは電源オンすれば完璧に明るい世界で、
電源オフにすればのっぺりとした単なる「ブラック」の世界。
話を最初に戻そう。
「ブラック企業」を辞めるか否かで悩まれている方の大半は、
辞めたい気持ちを強く持たれている。
でも「ブラック企業」と称される会社ほど
ある意味人気の業界だったり、世間的な知名度か高かったり、というのも事実。
自分がその会社を選ぶとき、入社するときは、
おそらくその会社の明るく輝く「ホワイト」な部分ばかりが
目に入ったということはないのかな。
なんでもオンラインで済まされる今の時代、
企業の「ホワイト」面「ブラック」面だけではなく、
そこに射す光の変化、影の移ろいまで、
見据えたうえで就職するのは難しいのだろう。
だけど、そもそも人も動物も植物もみんな、
毎日、日の出から日没、夜、そしてまた夜明けと、
常に微妙に移ろう光と影の変化の中で生きている。
刻々と変わる変化を誰も止めることはできない。
会社辞めたいな、転職したいなと思っている人は、
一年で一番美しい五月の木漏れ日の中で、
小さな葉っぱたちの見事な陰陽のグラデーションを、
ひととき、足を止めて、ゆっくりと眺めて欲しいな、なんて思うのです。
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今年も残り少なくなりました。
しばらく放置していた(汗)こちらのブログ、
紆余曲折を経て、
ようやく新しい扉が開いたので今日からまたボチボチと。
コロナ禍の始まる少し前に60代になりました。
20代の終わりから始めた広告制作、ライターの仕事も
さすがにもう世代交代だよね、
でも、声をかけてもらう限りはそれに応えたいし…と気持ちが逡巡していました。
それでも佳き出会いやご縁に恵まれて、
企業社史やシニア向け情報紙、住宅関係情報紙の編集、
求人パンフレット制作などを承っていましたが、
さすがにコロナ禍2年目の今年は仕事量がぐんと減り、
うーん、今後はお財布と相談しながら地道に暮らすしかないかなぁ…と。
でも、私が好きなのは、書くこと、話すこと、身体を動かして働くこと。
下手に暇ができると、仕事も家事も先送りしてだらだらしてしまうし、
ついついネガティブなことを考えたり他者を羨んだりするから、
それは自分の心身の健康によくない…と漠然と思っていました。
若い頃から、好きなことは仕事にする…というか
少なくても報酬を頂くプロになる、というのがモットーでした。
それは、趣味でやると結局、長続きしないという事実もあって(笑)。
ライター業の傍ら、約10年くらい、月数回というわずかなペースで
デイサービスの口腔ケア事業に携わっています。
たまたま学生時代に取得した歯科衛生士の資格があり、
尊敬する先輩からの紹介で、細く長く続いてる仕事です。
そして同じく約10年ほど自分の両親の介護経験もあり、
介護業界のことは、以前から多少知っている状態ではありました。
そんな折、
IT系事務代行サービスやピアノ講師など多彩なスキルをもつ
年下の友人と接する機会が増え、
何か新しいこと、ニーズがある分野の仕事をしたいね…と話が盛り上がり。
約半年の準備期間を経て、
今年4月から複業のひとつに彼女と共同で家事代行サービスを加えました。
介護保険未満の高齢者を対象に家事代行を承るのですが、
いざお客様と向き合うと、
サービスの内容や対価、介護との関係性などいろいろな問題が浮上してきました。
高齢者はまだ護認定を受けていなくても、
心身や生活上に何かしら介護とは切り離せない問題があると気づいたんです。
だから家事代行といっても、
やはり介護の基本的な知識、スキルがないと難しいかなぁと思いはじめたのが夏の終わり頃。
そしてたまたまのご縁で、
近所で訪問介護の事業所を経営されている方との出会いがありました。
こういう経緯で、訪問介護の仕事に興味があります、
短時間パートしかできないかもしれませんが…と相談したところ、
基本的な介護の知識、スキルを学ぶ研修(15日間)を指定の学校で受けさせていただき、
この12月から、訪問介護ヘルパーとして複数のお客様の家を訪ねることになりました。
今月は研修期間なので先輩に同行。
みなさん20〜30代の若い男子ですが、10年近いキャリアの持ち主。
小型バイクで軽やかに現場に来て、時間内で手際よく身体介護を実施し、次の現場へと。
お客様(高齢者)との接し方も上手だし、
彼らの母親世代のワタシですが、学ぶことばかり!です。
ちなみに両親とも最後は施設にお世話になったので、
訪問介護のことはまったく知らなかったのですが、
住まいが古くても、台所などの使い勝手が悪くても、
訪問介護を活用して一人暮らしをされている高齢者の方って、
なんだかのびのび「自由」な印象を受けます。
もちろん、施設には集団生活のルールがあり、
感染症対策なども徹底しなくてはならないから、
どちらも一長一短はあるのでしょうが。
先日、夕方の訪問介護を終えて、自転車で家に帰る時。
12月の18時はもうすっかり日が暮れて、
空には半月のぷっくりした月が出ていました。
その月が、なんなんだろう…今まで思ったこともないほど綺麗に見えたのです。
煌々と輝く光が、目に見えるすべてのものを照らしているように見えて。
「ああ、綺麗だなぁ」って、頭の中がそれだけになりました。
他の日には、同じく朝の訪問介護の帰路で、
河原の土手に群生してたクローバーの緑がやはり妙に綺麗に見えました。
今日の昼間は海沿いのお宅に行ったので、
帰りに駐車場からちらりと見えた穏やかな水平線が、やはりとっても美しかった。
というわけで、12月に入って、
短時間ではあるが新しい仕事を始めてから
今までもいつも目にしていた身近なものが、
凄く美しく見えてしまうという不思議な感覚を味わっています。
広告の仕事も好きだし、占いの仕事も好き。
でも、仕事の後でこんなに何かが「綺麗」に見えたことって、あまりないです。
特に広告の仕事では、取材や打ち合わせの後、
まだ仕事は完成していないので、
仕事を引きずったまま帰路につくから、
何かを単純に「綺麗」って思う気持ちになれないのかもしれません。
まあ広告の仕事には、広告の仕事ならではの充実感や満足感があるのですが。
久々に購入した紙の本!は“「風の時代」に自分を最適化する方法”。
地の時代から風の時代への変貌は、もう一昨年あたりからずっと言われていますが、
占いに関わっている自分としても、
それが今後の自分の人生にどう影響するのか?正直、わからないままでした。
何しろ「地」の時代を60年も生きてしまったのですから、
残りの人生、10年から20年?を新しい「風」の時代に合わせていくって、
そうそう簡単にできることではありません。
占い鑑定のアドバイスでは、
「視点を変えましょう」「まず自分が変わらないと」なんて
さらっと言っていますが(汗)
なかなかどうして「変える」「変わる」には紆余曲折と時間がかかります。
それも歳をとっていればいるほど!
それでも生きている限り、人は変わるし、古い扉を閉めて、新しい扉を開けていく。
きっと、来年も、再来年も、もし元気で生きていればもっと先も。
わたしはそう言いづけていくような気がします。
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昨日観た(録画)の「ねほりんばほりん」(NHKEテレ)は、
東日本大震災で家族が行方不明のまま、
現在に至っている方がおふたり登場した。
人形の姿になっているから、
ご本人たちの表情はわからなかったけど、
私が凄いなと思ったのは、
その方々と向き合うMCのおふたりの対応だった。
美辞麗句を並べるでもなく、
自分の言葉で自分の考え、感想を相手に伝えつつ、
相手の言葉もしっかり受け止める。
なんていうのかなー、
本当に真摯に相手と向き合っている時って
言葉の使い方や文法なんて関係なく、
全身全霊で相手の言葉を受け止めて、
その時に自然と口から出る言葉を発する。
ただ、それだけでいいんだ…というのが伝わってきた。
生死の境は残酷なほどにはっきりしていて、
だからこそ、
生きている人は他者の死を受け入れることができる。
でも「行方不明」というのは、
生死がわからない曖昧な状態だ。
きっとどこかで生きている…と信じるのもありだし、
残念だけどもう亡くなっている…と信じるのもありだ。
残された人は、これを自分で決めなくてはならない。
番組に登場した方々も、非常に長く辛い時間を過ごして、
自分なりの考え方の軸を決めているように見受けられた。
「時間がたつにつれて世の中では、
前を向く、復興、再出発しました…みたいな報道が多くなり、
家族が行方不明のままで時が止まっていて、
そうなれない私たちのような人間は、
ダメなのかぁと思ってしまうことがあります」
出演された方の最後の言葉にうーんと思った。
前を向くのも立ち上がるのも、ごく自然な人間の姿だとしたら、
なかなか前を向けず立ち上がれないのも、ごく自然な人間の姿だと思う。
みんな、その両方を備えていて、両方を行ったり来たりしているんじゃないかしら。
結論として。
「ねほりんぱほりん」MCの山ちゃんとYOUさんの、
聞く力、話す力は素晴らしいっ。
https://www.nhk.jp/p/nehorin/ts/N1G2WK6QW5/episode/te/WKLJVYMVW5/
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今年はなにもかもイレギュラーな年ではあるが、
それでも旧盆休みの今週は、街もなんとなく静かだ。
ここ一ヶ月くらいずっと考えていることがある。
それは、直接会ったこともない、特別に推していたファンでもない
若い俳優さんが亡くなったことが、
なぜ、いつまでも悲しさを引きずっているのか、ということ。
そして気づいたことがいくつか。
まず、葬儀というセレモニーを目にしていないこと。
身近な人が亡くなれば、
大概は葬儀に参列するか、お香典を届けて返礼品と挨拶状を頂く。
有名人の方でも、
大概はテレビやネットを通して葬儀の模様が報道されたり、
ご遺族からの挨拶がある。
そういう物理的な体験を通して、
人は半ば強制的?に、
その人が亡くなったことを受け入れていくのではないか。
そして、SNSのおかげ?で、
彼が亡くなった後も次から次へと笑顔の写真や動画やドラマや
多くの人からの追悼コメントなどがアップされて、
その内容が彼の仕事ぶりや人柄を肯定するものがほとんどなので
それはそれで嬉しいのだが、
だからこそ、逆に、彼がもうこの世界にいないことがとても悔やまれてしまうのだ。
以前のようにSNSのない時代だったら、
例え有名人が亡くなったとしても、
こんなに悲しみや後悔?が日々更新されていくことはなかった、と思うのだ。
さらに、異常気象なのか温暖化か知らないが、
今年は季節が穏やかに移り変わっていない。
もちろんコロナ禍の影響もあり、
季節の移ろいをしっかり五感で感じられないまま、冬、春、夏と過ぎている。
以前、お寺の取材で住職がこう言った。
「おばあちゃんの葬式の時は、境内で蝉が鳴いていて暑かったね。
おばさんの葬式の時は、裏山の紅葉がすっかり色づいてたよね。
…そんなふうに、葬儀と季節の記憶は案外結びついているものなんです。
一年中快適な葬祭会館での葬儀もいいんだけど、
暑さや寒さも記憶できるっていうのは、お寺の葬儀のいいところじゃないんでしょうか」。
なるほどと頷けた。
子どもの頃の田舎のお寺でのお葬式や法事は、
たしかに快適ではなかったかもしれないが、自然の中で営まれる非日常の儀式は、
子どもにとっては貴重な体験だった。
そして季節がスムーズに移ろっていくことで、
人は、悲しみとの距離を無理なく遠ざけていくことができるのだ。
数年前、父が初夏に亡くなった。
夏が過ぎ、秋が来る頃には、
もちろん思い出しはするんだけれども、
初夏の頃より優しい気持ち、
少し懐かしい気持ちで思い出せるようになっていた。
今年は7月は異常なくらい雨の日が多かった。
各地で豪雨被害が伝えられ、梅雨開けも8月まで延びた。
心身の体調が悪くない人だって、
あれほど雨に降りこめられたら気持ちが滅入る。
そんな中での彼の死だったから、
彼が亡くなったその日の天気と同じ状態がしばらく続き、
季節がうまく流れていかない中で、
衝撃や悲しみから、自然な状態で遠ざかることができず、
なんでこんなに悲しいのか、悔しいのか、
わからないままに二週間くらいを過ごしてしまったのだと思う。
おそらく、同じような心境の方も多かったのでは。
先日「暮らしの手帖 8-9月号」を買った。
表紙の絵を描いていてるミロコマチコさんという方が
「奄美大島新聞」というコラムを連載されていて、その中の一文に目が留まった。
※一部抜粋
ウミガメの目は、奥の奥まで続いてる宇宙みたいだった。
次の日、想像のいきものの絵を描いていたのだけど、目を入れたら昨日のウミガメが立ち現れて、
心がぶるぶると震えて、耳の奥がジーンとした。
亡くなった俳優さんはとても端正な顔立ちの方だが、
わたしは、特に彼の漆黒の瞳が好きだった。
目力があるとか、そういうのとは違う。
まっすぐにどこまでも続く、吸い込まれそうな漆黒の瞳。
ああ、そうか。
このウミガメの瞳の続く先のお話を読んで、
妙に気持ちが落ち着いた…というか、腑に落ちた。
というわけで、ウミガメの写真を載せることにする。
ああ、本物のウミガメに会いたいなー。
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JUGEMテーマ:日常
去年の10倍くらい大きくなったミニバラ。五月の花壇の主役です。
コロナウイルスとの戦いは長期戦になると、多くの専門家が言っている。
何十年かぶり!に月刊文芸春秋を買ったのだけど、
コロナ禍のあれこれについて、
ネットのニュースを小刻みに見るより、読みごたえがあってよかった。
で、長期戦といわれても、人によって時間の長さの捉え方は違う。
辛いこと、いやなことに遭遇している時は、時の流れはどうしようもなく遅いし、
楽しいこと、面白いことに夢中になっている時は、あっという間に時が流れる。
時間は誰にでも平等なんだけど、
それを長いと思うか短いと思うかは人それぞれだし、
個々にとっても、今日は長くて明日は短い、みたいな受け止め方の差がある。
では、長期戦をどう乗り切るか。
コップに残っている水の理論はどうだろう。
半分くらいの水を、まだ半分ある…考えるか、もう半分しかない…と考えるか。
例えば来年の立春頃をゴールとしたら、
なんだかんだで発生からもう数ヶ月経っているので
長期戦期間の1/3は過ぎていることになる。
そう考えるとちょっとだけ気分が楽になる。
または栄枯盛衰の考え方。
どんなに力をもつ権力者も、やがては衰退し時の流れの中に消えていく。
猛威をふるっているウイルスだって、永遠に今の状態が続くわけではない。
要は収束までの時間を、長いなぁ、大変だなぁ、いやだなぁと、
できるだけネガティブに考えないようにして、生きていけたらいいなぁと思う。
もちろん、こんな悠長なことを言っていられない方々が
大勢いらっしゃるのも充分承知しております(汗)。
コロナ禍のせいで環境負荷が減っているのか、
今年はミニバラの花つきがとってもいい。なんだかなぁ。
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JUGEMテーマ:日常
数年前に使っていた手帳。
お気に入りの水彩画風のポストカードをカバーにしていた。
ソメイヨシノが満開の頃に始まった
「緊急事態宣言」から一ヶ月以上が過ぎた。
お正月気分も抜けない頃に始まったコロナの国難は、
あっという間に春を突き抜けて
気がつけば初夏となった今もその勢いが収まらない。
最近、ネットやマスメディアで多くの人々が
「もう、以前の社会、生活には戻れない(戻らない)」と口にしている。
「もう、戻れない」という表現には、どこかしら未練と哀愁がある。
心のどこかでは、
コロナ騒動以前の社会の有様や自分の暮らしに、
ホントは戻りたいなぁ、あの頃はよかったなぁという、センチメンタルな気分。
後ろ髪を引かれながら、それでも自分を奮い立たせて前を向く、ような。
「もう、戻らない」という表現になると、ニュアンスはがらっと変わる。
コロナ騒動以前の社会の有様や自分の暮らしを肯定し、
平穏だった日々に感謝しつつも、
それはもう「過去」なのだと認めて潔く受け入れる。
大切な思い出の箱にきちんと蓋をしてリボンをかけ、
それを小脇に抱えつつ前を向く…というか。
だから「戻れない」と「戻らない」の違いは大きいと思う。
そして「戻れない」と「戻らない」の狭間でふらふら揺れている自分がいる。
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JUGEMテーマ:日常去年の今ごろの風景。
遅めのソメイヨシノを見上げるかわいい鯉のぼりたち。
JUGEMテーマ:日常
時が戻ればいいなぁ…って思いたくなる春。
それでも時は進み、やがて新しい景色が見えてくるはず。
2月の半ば頃に「Before Colona」でBC、「After Colona」でAC …と、
紀元前と紀元後に頭文字をかけあわせて、
軽い気持ちでtwitterに投稿したことがあります。
それから2ヶ月以上が過ぎた今、
世の中がその造語のように、
本当に大きな変貌を遂げそうで戸惑っています。
今までの価値観や常識は通用しないだろうと、
みんな薄々わかってはきたものの、
じゃあ何をどうしたらいいのかが、何もわかっていない。
今は、老若男女、誰もがそうなのかもしれません。
日本政府は3という数字が好きなのか、
「アベノミクス三本の矢」に続いて、
「三密(3つの密)を避ける」というキャンペーンを打っています。
この3という数字が気になっています。
東洋でも西洋でも「3」は行動、発展、新たなパワーを生み出す数字。
だから「3」のままでは、
ウイルスは自由自在に動き回り、さらに暴れて、
世の中は落ち着かないんじゃないかなと。
また、〇〇を避ける、〇〇をしない…という否定的な言葉は、
肯定的な言葉に比べて、
すんなり飲み込みにくいものなので、これもどうかなぁと。
そこで注目したいのが「3」の次にくる「4」。
こちらは安全や落ち着き、慈悲を現わす数字。
なので個人的には「三密を避ける」より、
「4つのルールを守る」といった表現のほうが、
ウイルスが収まり、
社会も人々の気持ちも落ち着くのではないかと思うんです。
自分なりの4つのルールは、
・手洗い、マスクを習慣づける
・できるかぎり家にいる
・家族や友達と良好なコミュニケーションを保つ
・心身の健康を保つ
言葉にすると簡単ですけど(汗)。
これを、行動として続けるのが難しいんですよね。はぁ…。
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JUGEMテーマ:日常
以前から気になっていた「時間」や「暦」について
少し勉強したいと思い、
昨年から都内の短期講座に通っています。
とはいえ、陰陽五行のいろはの「い」にも至っていないので
専門的なことは書けませんが(汗)
今までの講座で印象に残っていることを少しずつ書きます。
まず、ボーダーとストライプのお話。
横縞のボーダー柄は陰陽でいうと陰。
安定や調和、休んでいる状態を示すそうです。
縦縞のストライプ柄は陰陽でいうと陽。
変化や闘い、動いている状態を示すそうです。
なので、ボーダーを着ている時の心理状態は
みんなと仲良くしたい、穏やかに過ごしたい…。
そして、ストライプを着ている時の心理状態は、
みんなの中から抜きんでたい、勝負したい…。
たしかに休日の公園やショッピングモールには
ボーダーTシャツを着た親子連れがとっても多いし、
平日のオフィス街を歩く
ビジネスマンやビジネスウーマンたちの装いには
ストライプ柄のスーツやシャツを多く見かけます。
気をつけたいのは、
どちらにも優劣や良し悪しはないってことです。
一見、ボーダーを着ている人の方が「いいひと」に見えがちですが、
実は、排他的だったり保守的だったりというダークな面もあるし、
ストライプを颯爽と着ている人は「強気のやり手」に見えがちですが、
実は、臆病だったり心配性な自分を鼓舞するために、
努力している人かもしれません。
個人的に気になるのは、
景気が低迷して不安要素の多い時代になってきたせいか、
ここ数年、ボーダーの人気がちょっと高すぎないか?ってことです。
みんなと調和して仲間外れにならないように、
仲良く、優しく、穏やかに。。。
そして、ボーダーは、
「ナチュラル」とか「自然素材」という言葉と非常に親和性が高いように感じます。
あ、別にボーダーをけなしているわけではないですよ(汗)。
わたしも、けっこう着用しているし。
でも、そろそろ「ボーダー」着ていればいいや…みたいな時代の空気が
変わってほしいな、って気持ちもあります。
今年の春は、
ボーダーTシャツではなく、ストライプのシャツかブラウスを買おうかな!
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東京から西へ向かう機内で。大晦日の富士山。
JUGEMテーマ:日常
新年あけましておめでとうございます。
2010年代から2020年代へ。
振り返れば、1960年代から1970年代、1980年代へと
10年区切りで、
社会の出来事も自分のパーソナルな出来事も、
未だ色鮮やかに残っています。
それは自分自身が
子どもからティーンへ、そして社会人、母親へと
大きく変化していった時代だったからかもしれません。
その後、歳をとって感受性が鈍くなってきたせいか?
2000年代と2010年代の区切りは、
公私ともにあまり強く印象に残っていないのです。
今度の区切りはどうでしょう。
10年後、もしも元気で生きていられたら、
2020年代はこんな時代だったなぁーと、
きちんと記憶に留めておけるように、
これからの10年の出来事を、十分に味わいたいと思います。
できることなら、嬉しい、楽しい記憶が
たくさん残る時代にしたいし、人生にしたいなぁ。
そして、10年の区切りも大切ですが、
わたしは12年の周期、
つまり12年前の同じ干支の年のことを
振り返るのも好きです。
東洋でも西洋でも「12」という区切りは
様々な思想や運命学に用いられていて、
同じ干支の年って共通点が多いように感じます。
自分にあてはめてみると、
12年前、24年前、36年前と、
出産、家族の転職、転居など
その後の人生に大きな影響を及ぼした転機がいくつもありました。
…とすると、
12年周期の今年も、
新たな転機が近づいているのかもしれません。
次の角を曲がると、初めて見えてくる新しい景色。
それを、短絡的に良し悪しで決めつけるのではなく、
新しい景色の中に、自然と溶けこんで馴染んでいく。
そんな自分でいたいな、って思います。
さて。
12年前、24年前、長く生きている人なら36年前、48年前!!
あなたにとってどんな年だったか、振り返ってみると、
今年、自分自身に起こりそうな出来事が、
ぼんやりと見えてくるかもしれません。
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JUGEMテーマ:日常
もうだいぶ鎮火してきましたが、
トップアイドルグループの方の結婚発表、
ファンの方たちを中心にだいぶ炎上したようです。
ファンでもなんでもない者の個人的な意見ですが、
妻になった方の今後の覚悟やビジョンがあまり見えない
(世間に伝わっていない)ということに、
なんだかモヤッとしました。
美貌や知性、才能を生かして
以前のように表に出て
タレントやアナウンサーとしてやっていくのか。
夫のサポート役に徹して、
表に出ることはなく、
けれども有能なセレブ妻としてやっていくのか。
仕事を辞めたのだから
当然、後者になるのでしょうが、
それにしては、
前者の立ち位置に未練があるような行動が目立つし、
夫の仕事が円滑に進むように配慮しているかんじてもないし…。
(これはあくまで噂を通して感じることです)。
有名人でもそうでなくても、
結婚って、やっぱり人生の大きな転機であり、節目だと思います。
だから男性側も女性側も、
ある種の覚悟とビジョンが必要だと思います。
こういう夫(妻)になりたい、
こんな夫婦像、家庭像を描いています。
それは何年か後に
軌道修正したり、
ガラッと変わってしまうかもしれないけれど、
それでもやっばり、結婚する時には、
社会に向かっての、
ふたりの所信表明みたいなみものは必要だと思うんです。
今回の騒動では
夫側はファンに向けて一人で報告をされているようですが、
妻側はどうなんでしょうか??
元の職種名や実名を出す、出さない…の前に
何か大切なことが抜けていて、
ご夫婦のビジョンや彼女のビジョンが
はっきり見えてこないのが、
この騒動のモヤっとする理由かな?なんて考えています。
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JUGEMテーマ:
音楽に詳しい方やフジファブリックファンの方には
本当に申し訳ないのですが、
今さら!!「若者のすべて」をヘビロテで聴いています。
自分の息子くらいの年代のバンドで、
当然、曲の中に描かれている世界とは
シンクロしないはずなのですが、
不思議なことに昭和後期の若者だった自分も
その描かれている世界に
すーっと入り込んでしまうのです。
きっかけは、
槇原博之さんが「好きなカバー曲ベスト3」の
ひとつにこれを挙げていて、
音楽番組で見事に歌い上げていたからです。
初代ボーカルの方は
随分前に亡くなられていることを知りました。
この世で、圧倒的な儚さをもつもの、と言ったら、
夭折されたアーティストの作品ではないでしょうか。
「圧倒的」と「儚さ」を
組み合わせていいものかわかりませんが、
自分にはこういう表現しかできないのです。
10代か20代だけがもつ強烈な光を一瞬放って、
すぐに消え去ってしまう。
人々の瞼の奥に鮮やかな残像を焼き付けたまま。
その有様は、
惜しい、悲しい、悔しい…という「負」の感情を
すべてひっくり返して「正」にしてしまう強さにも見えます。
その後、淡々と歳を重ねていく多くの人々は、
夭折したアーティストの作品に触れる時だけ、
その頃の自分に戻ることができます。
だから、彼らはいつまでも支持されるのでしょう。
ちなみに、
2000年頃の、
初恋の嵐というバンドの「初恋に捧ぐ」(スピッツがカバーしています)。
こちらもボーカルの方はデビュー直前に亡くなられていますが
今聴いても色あせない新鮮な曲を歌っています。
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JUGEMテーマ:日常
古民家のうつわ家さんで。凛としたクリスマスローズ。
政治の失態からの目くらましなのか、
人気女優さんの麻薬所持が大きな話題になりました。
結局、NHKの大河ドラマは、
彼女より10歳くらい若い女優さんが代役に決まったとのこと。
若い女優さんにとっては飛躍の大きなチャンスだし、
この役をつかみ取る強運を持っていたのでしょう。
そう、どんな場面でも「代わりはいくらでもいる」のです。
「君がいないと仕事がまわらない」。
「社長が倒れたら会社は終わり」。
…なんて言葉をよく聞くけれど、
実は社会的な広義の人間関係においては、
「代わりはいくらでもいる」のです。
古代からの歴史を振り返ればそれは一目瞭然。
絶対的な権力を持った王もその一族も、
時の流れの中でいつの間にか消え、
やがて新しい王や一族が天下を取ります。
その繰り返しで今日があり、
それはこの先の未来も繰り返されていくことでしょう。
もっとも、私的な狭義の人間関係の中では
「代わりがない」ことがあります。
その最たるものは親子関係ではないでしょうか。
親が貧乏だから、裕福な親に代わってもらう。
子どもと相性が良くないから、他の子に代わってもらう。
そんなことはできないし、
不幸にして親や子が死んでしまった場合も、
代わりになる対象はいないので、
誰しも喪失感を抱えたまま生きることになります。
夫婦や恋人の場合はちょっと違って、
別れ方にもよりますが、
いつのまにか新しいパートナーができる場合もあるし、
別れたり失った相手をずっと思い続けている場合もあります。
話を元に戻しましょう。
「代わりはいくらでもいる」なんていうと、
その人の存在価値を否定してるみたいだし、
仕事など必死で頑張っている人がそんなことを言われたら、
やる気が失せてしまうかも。
でも、この言葉を違う視点から解釈してみたいのです。
この世に未来永劫続くものはなく、
特に、命あるものは、日々、終わり(死)に向かって生きています。
だからこそ、今、手にしているチャンスや幸せ、満足感を
かけがえのないものとして、
大切に扱えばいいのではないでしょうか。
いつかは失うもの、いつかは誰かに譲るもの。
そういう謙虚さを持ちながら、
与えられた役割に全力投球していれば、
やがて、それを自然と手放す時が来ても、何も悔いはないと思うのです。
そうはいっても、
誰しも謙虚な気持ちを忘れて、「驕り」や「油断」が生じることはあります。
そんな時には、今回のニュースの一件でも思い出して、
「代わりはいくらでもいるんだ」って、つぶやいてみるのもいいかも…。
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シックで華やかな秋の花束。花風水に詳しいフラワーデザイナーさんの作品。
台風19号で被害に遭われた皆様に、
心よりお見舞い申し上げます。
台風の通過時は、雨戸を閉めた家の中で
どうか無事に通り過ぎて…と祈っていました。
どんなに科学や文明が進歩しても、
自然の猛威の前では、人は祈ることしかできません。
今どきの暮らしの中で、「祈る」というのは
古くさいことのように感じるかもしれませんが、
案外、いざという時に人間がとる行動は、
太古の昔も今も変わっていないように思います。
先日、家族の問題で悩んでいた方からご相談を頂きました。
気分転換の旅と運気アップを兼ねて、
各地のパワースポットを訪ねることが多いそう。
で、たしかにリフレッシュはできるけれども
問題の根本的な解決はできなくて…とのこと。
わたしのまわりにも旅が好きな人は多いです。
特に同世代の女性たちは子育てや介護から解放され、
友達やパートナーとあちこち出かけているようです。
で、ふと気づいたのは、旅が好きな人たちの共通点。
・結婚で実家を出たくらいで、
ほとんど引越しをせず同じところに定住している。
・若い時からずっと同じ職場、仕事に就いている。
・最初の?結婚相手と別居や離婚などせず、長く結婚生活が続いている。
もしくは未婚で、子どもの頃からずっと実家に住んでいる。
つまり、日常生活そのものが安定していて変化の少ない人ほど、
旅が好き! ってことです。
逆をいえば、
・進学、就職、転職、転勤などで、
何度も引越しをしていろんな場所に住んだ経験がある。
・転職回数が多い、または起業、独立している。
・結婚経験はあるが別居や離婚、再婚などを経験している。
…と、まあ諸事情で引越し経験が多い人は、
なかなか旅に出るゆとりが持てないのか?
あまり、旅の話で盛り上がることはありません。
一時期、方位と気学をかじったことがあり、
人間の運気を根底から変えるには、
短期の旅行ではなく、住む場所そのものを変える
…というのがその気学の理論でした。
方位とりの効果は 当然、旅行<引越し です。
場所の移動と気の関係ももちろんですが、
それよりも「退路を断つ」覚悟が、
運気を変えるのではないかと思っています。
どんなに遠くに旅に出ても、
帰る家があり、待っている人がいる。
たとえ隣町でも、
誰も知り合いがいない、馴染みのない場所で、
ゼロからスタートする。
このふたつの違いは大きいです。
もちろん、旅に出てリフレッシュして、
日頃のストレスや不満をしばし忘れるのは
とてもいいことです。
しかし、根本からその不満やストレスと対峙したいならば、
旅よりも引越しをおすすめします。
とはいえ、歳をとるほどに引越しは億劫になるし、
経済的、物理的に難しい人も多いでしょう。
ちなみに、前述の相談者の方は、
考えた末、実家以外の場所に、
仕事場としての家を借りることになったそうです。
その後のお話はまたいつか。
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JUGEMテーマ:日常
令和最初の夏は、5月1日に始まったように思う。
そして、8月31日にきっちりと終わった気がする。
この夏は友人や知人のまわりで訃報が相次ぎ、
30代から90代までさまざまな年齢、立場の方がこの世を去った。
社会に目を向ければ、
高齢者の暴走による悲しい事故の多発、ひきこもりの高齢化問題
途方に暮れてしまった放火事件、煽り運転とドライブレコーダーへの注目
芸能事務所のすったもんだ騒動など、
SNSの普及もあり、少し前までは想像しなかったようなことが実際に起きている。
個人的には、60代になっても特に日々の暮らしは変わらないが、
フリーランスで気ままに生きてきた故、
公務員、会社員などの同級生との、年金受給額の違いを実感している。
それゆえ、健康に留意して可能な限り現役で働いていこう、仕事を楽しもう、
…という気持ちになっている。
明日死ぬかもしれないし、30年先まで生きるのかもしれない。
生きている以上、誰もが抱えている「平等なリスク」を頭の隅っこに置きつつ、
今日は今日やるべきことを、楽観的に、一生懸命に、そして感謝しながら、やるだけだ。
若い頃は、秋の始まりよりも夏が去っていくことに切なさを強く感じたけれど、
最近は、色褪せていく夏の景色と、そこにすっと入って来る優しい秋の気配が、いいなぁと思う。
この時期に聞く歌は、やっぱり竹内まりやの「Septmber」かな。
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JUGEMテーマ:日常
本当はもっと重要なニュースや、
真剣に考えるべき社会の問題が多々あるのに
ついつい、吉本お家騒動のライブ中継に見入ってしまった。
すったもんだの中で、
こんな会社、やめてやる! という台詞を口にした芸人さんもいる模様。
このセリフ、職場はもちろん、
学校生活や結婚生活の中でも、口にしたくなることは多いと思う。
こんな学校、やめてやる!
こんなダンナ(ヨメ)、別れてやる!
それを言葉だけで留めるか、行動に移すかは別の話。
ただ、私がこれまでの人生経験から思うに、
言葉にする人ほど行動には移しておらず、
同じ環境の中で不満を抱えながら日々を過ごしている。
こんな●●、やめてやる! というセリフは
ともすると、発言者が対象となる組織や人を見下して、高い位置からモノを言っているようだが、
実は、発言者はその組織や人に、依存している場合が多いのではないか。
ひどい会社だけど、今更転職しても条件が悪くなるだけだから、やめられないんだよ…
ひどいダンナだけど、別れたらワタシの生活が成り立たないから、仕方なく一緒にいるのよ…
逆に、こういった宣言?をあまりしなかった人のほうが
いつのまにか転職したり離婚して、
新しいスタートを切っているケースが多いように思う。
まあ、どっちがいいとは言えないけれど、
不満タラタラの環境にどっぷり漬かったままで、
文句と言い訳を繰り返すのは、案外ラクな生き方なのかもしれない。
環境を変える、新しいものをゼロから創るというのは、口で言うほど簡単ではないからねっ。
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JUGEMテーマ:日常
「20世紀の恋人」という新書を読んだことがある
自動車部品メーカーの記念誌を制作するにあたって、
車社会の歴史を把握する資料として見つけたのがこの本だ。
何ともいえないロマンチックなタイトルは、
20世紀の人々が、自動車にどれほど恋焦がれていたかを表している。
特に、最近、免許返上が叫ばれている高齢者たちは
20代の頃からずっと自動車の進化を目のあたりし、その恩恵を受けてきた。
振り返れば、昭和40年代以降、車のCMはひたすら格好よくおしゃれなものであり、
特に男性向けの自動車は、加速だとかハンドルさばきだとか、
車の性能の良さがずっとアピールされてきた。
しかし、20〜30代の若者の運動能力や判断力があれば
乗りこなせる高性能なスポーツカーを、
運動能力も判断力も衰えた70〜80代の高齢者が乗りこなせるのか?
高齢者面免許返上がなかなか進まない背景には、
自動車メーカーや経済界、政界の思惑もあるのではないかと感じる。
なぜならば、日本の高度経済成長=車社会の繁栄を担ってきた中心的な人々(ほとんど男性)が、
経済界、政界で今も多く活躍しているからだ。
それでも、これだけ高齢者の運転の危険が表面化してくると、
免許返上とともに、公共交通機関がある場所へと、高齢者の移動が進むのではないか。
特に、男性よりも車への執着が少ない女性、
先にご主人を亡くした一人暮らしのおばあちゃんは、
電車やバスの便がいいところ、
自転車や徒歩で生活できるところへと移り住む人が増えるんじゃないか。
幸か不幸か男性は女性より寿命が短く、
今後の超高齢化社会は、圧倒的におばあちゃん率が高くなると言われている。
各地でシャッター化している駅前商店街は、
いっそのこと、元気なおばあちゃんたちが暮らしやすい町にリニューアルしたらどうだろう。
近未来のおばあちゃんである私も、そういう町が増えたらいいなぁと思う。
※もっとも、仕事や生活に車が不可欠な方も多いだろうし、
社会のインフラとしての車を否定しているわけではありません。
車を所有しなくても、老後はなんとか生活できるかなと思っている、
一個人の意見としてお読みください。
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JUGEMテーマ:日常
JUGEMテーマ:人生論
占いの仕事でよく頂く相談が、
(結婚したい)または(恋愛したい)けど、出会いがない…というご相談。
大昔、高度経済成長期のように
若い男女がわんさか職場にいる時代ではないし、
スマホやITの発達で、
別に恋愛や結婚をしなくても、特に不便もなく生きられる時代。
なんというか、ご相談される方々の背景には
自然な出会い>人工的な出会い(婚活とか合コンとか)という意識があるようで、
婚活するほどではないけれど、自然な出会いが欲しい…とおっしゃる方が多い。
そんな方々に日々の生活パターンを聞くと、
平日は家と職場の往復、休日は同性の友達と遊ぶ…というのが多い。
つまり、生活パターンが固定化しているのだ。
なので、アドバイスとしてまっ先にお伝えしているのは
生活バターンを変えてみましょう!と。
平日は、家と職場の往復ではなく、習い事やボランティアなどに参加する。
休日は、いつもとは違う顔ぶれの友人と会う。
もっとパワーがあるなら、転居や転職もあり。
旅行も悪くはないけれど、
短期の旅行はさほど人生に影響を与えない…と私は考えている。
要は、自分で積極的に変化を呼び込む、
そのパワーこそが、出会いにつながるのだと思う。
タロットカードでいうなら『運命の輪』かな。
この運命の輪は留まることなく常に回っており、
チャンスもあればピンチもある。
しかしチャンスもピンチも、
輪が廻っていなければ始まらない。
ここまで書いて久保田利伸の「LA・LA・LA LOVE SONG 」を思い出しました。
そう、人生は止まることのないメリーゴランドかも。
https://www.youtube.com/watch?v=prfepwJ5wZE
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JUGEMテーマ:日常
梅雨の合間をぬって友人と大阪へ。
1970年、大阪万博の年、
小学校の同じクラスで仲良くしていたHちゃんと、
2019年、約50年の時を経て、
大阪万博のシンボルだった太陽の塔を観に行ったのだ。
当時、うちもHちゃんちも、
親が忙しかったのか予算がなかったのかわからないが、
大阪万博を観に行かず、
代わりにカラーテレビを買ってよしとされた…気がする。
最近になって太陽の塔の内部が復元され、一般公開していると聞き、
NHKでそれを紹介している映像を観たので、
これを機に「行ってみよう!」ってことになったのだ。
半世紀も雨風にさらされた外観は、
やはり時代を感じさせるレトロな巨大なコンクリートの塊。
でも、初めて入った塔の内部は圧巻だった。
かなり復元されているけれど、
これを創った当時の、岡本太郎氏たちの熱量はそのまま籠っていた。
入口以外は撮影不可のため言葉だけになるが、
原始的な生命体から始まる生命の樹の上のほうには、
人類の祖先を思わせる猿たちの姿。
樹の高さは30mくらいだろうか。
その中に、遠くから見ると白い布を被ったようなゴリラがいた。
らせん状の階段を上がって近づいていくと、
ゴリラの頭の部分はむき出しの機械だった。
といっても、金属の板がいくつかネジで止められた簡素なもの。
60〜70年代のSF映画に出てくるような、今見るとちゃちな仕掛け。
「このゴリラは50年前には頭の部分が機械仕掛けで動きました。
その後、機械を覆っている頭の部分が壊れてしまい、今はこの形で残しています」。
首から下は、着ぐるみなどに使われる素材なのか、
本物のゴリラに似せて体毛がふわっとしたかんじに作られていた。
といっても、50年の歳月を経ているから、手で触れたらボロボロなのかもしれない。
塔を後にして、Hちゃんとふたりでしみじみと。
「子どもの頃に一緒に居た友達と、
半世紀を経て一緒にここに来られることが、もう奇跡に近い幸運だよね」。
「でもさ、あのゴリラは頭の部分が壊れたまま、
50年間、誰も来ない暗い塔の中でずっと過ごしていたんだよ」。
「それを思うとせつないねぇ。50年ってもの凄い長い歳月だもん、、、」。
1970年代の人々が思い描いていた未来とは、
かなり違う場所にいる今のわたしたち。
でも、物語中にしかないと思っていたタイムマシンが、
「太陽の塔」というかたちで、
私たちを遠い過去へと連れて行ってくれた気がする。
長く生きてきてよかった!
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JUGEMテーマ:日常
仕事柄、様々な占い師さんの著書を読むようにしている。
人気占い師さんにもいろんなタイプがいて、
最近のお気に入りは…(内緒)。
単に占いを信じるか信じないか、ではなくて、
この占い師さんの言葉は信じる、この人の言葉はちょっと…と、
自分なりの選択基準を作ってみてはどうだろう。
人間は十人十色。その日のコンディションもさまざま。
だから相性のいい占い師さん、
そうでない占い師さんがいて当然だと思う。
さらに、いくらお気に入りの占い師の言葉でも、
うーん、ちょっと違うかも、と感じたら、拒否すればいい。
または、この人はこう言っているけど、こう解釈しよう…とか。
このくらい冷静に咀嚼できれば、
占い師からどんな言葉を聞いても、
あなたの運気はおそらく上がっていくだろう。
個人的には、上から目線の言葉遣いの方はちょっと敬遠。
そして、目に見えないものが見える、感じる、ことを
アピールしすぎる方も敬遠しちゃうかな。
どれほど霊感が強かろうが、
他の人には見えないものが見えようが、
だからといって、その方が特別偉いわけではない。
だから私は、どんなに有名になっても言葉遣いが丁寧な方、が好きです。
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向田邦子さんの名作「阿修羅のごとく」HNKドラマ版を、2019年のお正月に観た。
俳優陣の美しさ、芝居のうまさ、脚本の奥深さは今更言うまでもないが、
この時代の頃には「男」と「女」として成立していた諸々のことが
その後「男性」と「女性」なり、今や「男子」と「女子」へと変化しており、
それにともなって「男」と「女」の時代にはちゃんとあった、
どうしようもないエロチックさや濃密さ、せつなさ、
理性には収まり切れない本能みたいなものが、どんどん薄れているように感じた。
浮気も不倫も見栄も嫉妬も、
今だって昔と変わらずに巷にあふれているけれど、
そういうものがまるでスマホ画面のように、
とても乾いた、つるっとしたものになってしまって、
そこに、このドラマが描かれた頃のような湿気や質感はない。
ドラマを観たあと、ふと思い出したのは、
小学校4年の時に仲良くしていたAちゃんのこと。
彼女は若くて色白できれいなお母さん、妹さんと3人で
小さなアパートで暮らしていた。
お母さんは洋裁のような仕事をしていた
お父さんは遠くで働いていて、
たまにしか帰ってこないと聞いていた。
そのアパートの近くを新幹線が通っていた。
線路のまわりはコンクリートの壁で囲われていたけれど、
周辺の盛り土の斜面は何もない広い原っぱで、
わたしとAちゃんは、よくその斜面に座って、
スケッチブックに絵を描いた。
何を描いたのかは覚えていないけれど、
背後に時折、新幹線が走りすぎる轟音を聞きながら、
真っ青な秋の空を眺めたことは覚えている。
5年生になってクラスが変わると
彼女との接点はなくなり、
その後は連絡をとることもなくなった
それから数年後に、
中学生くらいになっていた彼女の妹が書いた文章を読む機会があった。
文章が上手だったから、市の作文集か何かに載ったのかもしれない。
彼女は、自分たち姉妹が私生児だということ、
自分が、母や父をどう思っているかなどを、正直に書いていた。
既に、お母さんは亡くなっていたようだった
今だったら、そんなプライベートを書いたら教師に咎められそうだが、
昭和40年代〜50年代のことである。
「阿修羅のごとく」で、
ヒロインたちの父にはいわゆる別宅があり、
そこで若い妻と子どもを養っているという設定だった。
それに気づいたまわりの人間たちが、あれやこれやと揉めるのだが、
その揉め方が今とは違って、しょうがないんだけれども、人間らしいというか。
機会があったら、
あの頃、Aちゃんと遊んでいた場所に再び行ってみたくなった。
景色は随分変わっていても、新幹線の轟音はそのまま聞こえるかしら。
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JUGEMテーマ:日常
友人とのおしゃべりで、
最近は、衣食住ともに軽やか志向だね、みたいな話になって。
食事はおいしいものを少しずつ…になってきたから、大きすぎるお菓子やパンはちょっと。
住まいも、子どもが独立して夫婦ふたりだから、小さな家で十分。
衣類も、軽くて安いものでいいよね。
重いウールのコートや硬い皮のパンプスやバッグはもういらない。
そういえば、バブルの頃からしばらくの間、「一生もの」って言葉が流行ったなぁ。
「一生もの」のコート、バッグ、アクセサリー、靴。
みんなそれなりのブランドでしっかりした造りで、概ねが重くて硬かった。
あの「一生もの」は、どこへ行ってしまったのだろう。
長くタンスにしまっておいた人も、
最近の断捨離ブームで、フリマに出したり、捨てたりしているのではないかしら。
それにしても、高価で、重くて、硬い、
今思えば窮屈なファッションを身に着けていた頃は、
まあ、若かったせいもあるけれど、
あまり、肩こりとか疲れとかストレスってものを、意識していなかったように思う。
今は反対に、軽くて動きやすいファッションを身に着けているのに、
老いも若きも関係なく、肩が凝る、疲れた、ストレスだらけだと、ぼやいている。
今さら、重いコートを着たり、硬いヒールの靴を履く気はないけれど、
その重さや硬さが気にならないほど元気だった
あの頃の時代、自分を羨ましく思うこともある。
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JUGEMテーマ:日常
一年くらい前から、
シニアの方に自分の半生を語って頂き、
その方の言葉のままで書き留める
…という仕事をしている。
もうかれこれ10人くらいにお会いした。
大半が男性で、
みなさん人生の荒波を乗り越えて
今日を生きている方々で、
戦前戦中の子ども時代は貧乏、
一転して戦後の高度経済成長期になると、
どんどん出世していく…というパターンが多い。
どの方にもご両親のことを聞く。
70〜80代のご両親といったら、
明治半ばから後半生まれくらい。
で、すべての方が
「父は厳しかった。子どもの頃はよくぶん殴られた」という。
つまり、親に殴られるのが当たり前の時代に育っているのだ。
たぶん、学校の先生にも同様に殴られているんじゃないかな。
そういう世代が、
今、パワハラとか老害とか責められている。
※私がお会いしている方々は、
そういうトラブルとは無縁の方々です。
すべて育った環境のせいではないかもしれないが、
子どもの頃から染みついている
「目上の人間に殴られて当たり前」っていう意識を
その世代が今更払拭することはできないと思う。
じゃあどうするか?って名案は浮かばないのだけれど、
パワハラはいけないという意識を
繰り返し社会に浸透させていきながら、
時が過ぎて、
親や先生に殴られないで育った世代が、
社会の中心に増えていくまで待つしかないのかなと思う。
各々の個性はひとり一人違うのだけれど、
その世代共通の価値観や意識ってけっこう根強くて、
その人の人生や社会全体への影響力が、
大きなものなんだなぁと思う。
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JUGEMテーマ:日常
区役所の追悼コーナーでは、サザンのエンディング曲が流れていました。
春夏秋冬という四季の中で、夏だけは特別なのだ。
人も景色も暮らしも「夏の国」という、
他の季節とは違う次元のところのものになるのだ、と。
何かで読んで、へぇーと思っていた。
もちろん、日々の仕事や家事は
夏だから特別どうってことはなくて、
カレンダーどおりに淡々と続いていく。
でも、クラクラと眩暈がしそうな強い日差しや
日常をすべてかき消すような蝉の声、
死者が身近に感じられるお盆の迎え火や送り火に、
なんとなく「今のわたしは夏の国にいるんだ」という、
ちょっとしたファンタジーを感じたりしていた。
特に、今年は平成最後の夏。
昭和から平成に変わる時は、
今回のように予告がなくて、名残を惜しむ時間はなかった。
でも今回は、この30年の平成という時代をふりかえる時間がある。
6月に、平成のはじめの頃に子どもたちが通っていた小学校が取り壊され、
8月には、同じく平成のはじめの頃からはじまったちびまる子ちゃんの作者、
さくらももこさんが亡くなった。
古い小学校の建物も、まるちゃんの「のぼり」や電車も、
身近な街の風景に溶け込んでいて、
意識しなくても目に入ってきたものだから、
それが無くなるというのはけっこうなショックだった。
キャラクターとしてのまるちゃんは不変だけれど、
やっぱり作者さんがもういないというのは
特に地元の人たちにとっては大きな喪失感である。
そんなこんなでこの夏は、
ああ、もう30年もたったんだ…、平成が終わるんだ…と、
しみじみ思うことが多かった。
もっとも「さよなら」ばかりではなく「こんにちわ」もあった。
8月に娘夫婦に男の子が生まれ、
9月に一歳になる息子夫婦の女の子は日々健やかに育っている。
そして私自身はこの8月で個人事務所設立30周年を迎えて、
運と縁に恵まれたことを心から感謝しつつ、
まだやりたいことがなんだかんだとあるから、
もうちょっと頑張ろう!って思っている。
9月が始まって「夏の国」はもう遠い彼方へと去って行った。
誰もが、いつもの日常に戻ってきた。
でも、平成30年の「夏の国」には、いろんな想いが詰まっていて、
それは、もう二度と戻ってこないのだという、
センチメンタルな甘酸っぱさを含んだまま、
やがて遠い光景になっていくんだろう。
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JUGEMテーマ:日常
一昨日、地域のAMラジオ番組で
キャスターのおふたりを占う企画に出演させていただいた。
もちろん、リハーサルなしの生放送、生占い!
テレビでもラジオでも、占いに台本はありません。
で、キャスターさんからの質問のひとつに
「占いを上手に使うコツを知りたい」というのがあって。
私なりの考えだが、
日常的に「占い」に触れておくことが大切だと思う。
朝のテレビの星占いでもなんでもいいんだけど、
結果を聞いて『あ、今日はラッキー」、「ふーん、今日はおとなしく過ごそうか…」と
一喜一憂?を毎日繰りかえしていくうちに、
「占い」に対する慣れ、というか客観性みたいなのが育ってくる。
すると次のステップとして、
「そうか。最近の私は調子いいから、占いも前向きに受け止めているのかな」
「うーん、ツキがないと言われて落ち込んじゃうのは、もしや心が疲れているから?」と、
「占い」にた対する自分の反応を冷静にとらえられるようになる。
ここまでくれば「占い」に振り回されないというか、
どんな大物?や怪しい?占い師に何を言われようと、
ワンクッション置いて、自分にとってベストな受け止め方ができると思う。
ま、ここまで到達するにはある程度の時間はかかると思うけど…。
それにしても今年は吉凶ともにニュースが多い。
平成が30年の歴史に幕を下ろす年だから、かなぁ。
昭和は遠くなりにけり…といっていた日はもう遠すぎで
今や、平成も遠くなりにけり…だわ。
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JUGEMテーマ:日常
ラベンダーの季節が始まります。梅雨の時期をうまく乗り越えてくれるといいなぁ。
たしか昭和が平成に変わる頃、
石原裕次郎さんや美空ひばりさんが亡くなった。
世間は大騒ぎで
彼らと同世代の人たちは悲しみに暮れていた。
しかし、当時アラサーだった私にとってそれは他人事であった。
それから30年経って平成が終わる今、
西城秀樹さんの訃報に驚くほどショックを受けている自分がいる。
ああ、同世代のスターが亡くなるってこういう感覚なんだ、と。
新御三家がデビューした頃、中2か中3くらいだった。
友達と初めて郷ひろみさんのコンサートに行った。
西城さん、野口さんのコンサートに行ったことはなく、
特にファンだったわけでもないのだが、
YouTubeで当時の曲の動画を見ると、ほとんど全部知っている!
中でも特に記憶に残っていたのが「薔薇の鎖」
高校1年の夏。校舎屋上の蒸し暑い部室。
たどたどしく弾いていたマンドリン。
帰りに仲良しの友達と立ち寄った近くのパン屋。
長い間閉じたままだった古い記憶の箱の蓋が久しぶりに開いたように、
「薔薇の鎖」を聞いたら
その当時のさまざまなシーンがわぁっと鮮やかによみがえってきた。
彼らの歌は、
毎日、テレビやラジオからたくさん流れていたのだろうし、
当時は、近所の商店街やスーパーでも
流行の歌がに流れていた気がする。
だから、記憶への刷り込みが半端ないのだろう。
新御三家に夢中だった人が多いと思われる昭和30年代前半生まれは、
団塊世代ほど数が多くなく、
あまり脚光を浴びずに生きてきた気がする。
でも、今回の西城さんの訃報に
ネット上でとてもたくさんの書き込みがあるのを読んで、
あの頃の時代を思い出すとともに、
同じような気持ちを持っている、
同世代の人たちがたくさんいるんだなぁと思った。
今や、音楽もスマホでそれぞれが聞く時代。
街中に、同じ音楽が流れるなんてこともない。
時代は大きく変わったけれど、
簡単に過去の映像が見れるタイムマシンのようなYouTubeがあって、
簡単に意見を発することができるネットがあって。
それはそれで、いいのかなぁなんて思うのです。
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JUGEMテーマ:日常
昨日はフジテレビ「めちゃイケ」の最終回を観た。
テレビに限ったことではないけれど、
ビジネスがらみのものは
勢いが衰え始めるとあれこれテコ入れをして、
それでもやはり衰えは止められなくて、
最後にはピリオドを打ちましょう、ってことになるのだろうね。
土曜の8時と言えば「全員集合」「ひょうきん族」そして「めちゃイケ」。
昭和後半から平成前半くらいの子どもたち(大人も?)って
みんなが共通の「テレビ時計」を持っていて、
それが今思うと、
人間の生体リズムにとっていいものだったように感じる。
今では録画はもちろん、youtubeで古い時代のものも、
いくらでも好きな時に再現できるから、
それぞれの「テレビ(動画)時計」がバラバラだ。
人は誰でも平等に歳をとって老いていく。
だから、アニメ以外の人気番組が、
いつまでも同じ状態で続くというのは不可能だ。
そう考えると、終わりがあるのはあたりまえのこと。
願わくば、次に続く新しいものが、
(それはもうテレビではないのかもしれないけれど)
みんなが一緒に楽しめて、笑えて、明るい話題になるものが、
登場するといいなぁと思う。
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JUGEMテーマ:日常
去年の四月に尾道の坂の上から。桜はもう散り始めていました。
最近、足掛け6年くらい続けていた
SNSの使用頻度がぐっと減った。
飽きっぽい(汗)性格というのもあるけれど、
最初の頃ほど面白味がなくなったことと、
自分が投稿する労力よりも、
他の人の投稿に目を通して
「いいね」を押したりコメントを書くのに、
思いの他、時間と労力を費やしていたことに気づいたからだ。
そして、SNSをほぼ辞めてからの一番の変化は肩こりの軽減!
仕事柄、PCに向かって原稿を書く作業が
肩こりの一番の原因と思っていたが、
どうやらそれは違っていた模様。
・就寝前のスマホでのSNSチェック。
・プレッシャーやストレスが大きかった仕事。
長い冬が過ぎてこの2つが軽減されてきたら、
不思議と肩こりの辛さが少なくなってきた。
自分なりの勝手な分析だけれど、
SNSで自分のコメントにリアクションしてもらったり、
他の人の投稿にコメントする時って、
だいたいポジティブな言葉のキャッチボールで、
その数分間はちょっとだけ気分が晴れやかになる。
だから苦手な仕事や人間関係の課題を先送りしたい時に、
SNSはとっても便利。
でも先送りしても何も解決しないわけで…。
私の場合、就寝前にSNSをチェックして
ちょっとだけ晴れやかな気分になるものの、
同時に、目を閉じると
先送りしている仕事のストレスやプレッシャーが押し寄せてきて、
それから身を守るために、肩に変な力を入れて寝ていた。
当然、寝つきもよくないし、朝もすっきりしない。
人間のからだとこころは繋がっている!
今更ながらそれに気づかされた。
この春、心がけているのは、肩のこらない暮らし。
からだもこころも。
日々の暮らしも人間関係も。
停滞しないですーっと流れていくように。
先送りしない。安易な一瞬の楽しさに逃げない(逃げすぎない)。
どのくらい実行できるかわからないけれど、
とりあえずここに書いておきます。
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JUGEMテーマ:日常
寒い日々が続いている。
ほとんど雪のない地方に住んでいるが、やっぱり寒い。
でもこの1月の小寒、大寒が過ぎると、すぐ立春。
11月、12月の寒さと1月、2月の寒さは感じ方が違うんだよね。
冬至に向かって陽が短くなっていく時期と、
夏至に向かって陽が伸びていく時期の違いだろうか。
外に出ると
冷蔵庫を開けた時のようにキーンと寒いのだけれど、
夕方、窓から射す光にほのかな明るさがある。
20歳になるかならないかの頃、
四季の中で寒い時期がいちばん好き…と言っていた友人がいた。
コートの襟をたてて、背筋を伸ばして北風に向かっていくのが好きなのだと。
彼女の人生前半は向かい風の時期が多かったようなので、そう言ったのかなぁ。
そのときの会話で、初めてトレンチコートなるものの存在を知ったように思う。
年末に、庭にムスカリの球根をたくさん植えた。
もう少したてば、
この写真のような色鮮やかなムスカリたちが、あちこちから顔を出すだろう。
冬来たりなば春遠からじ、だ。
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川辺の散歩道に水仙がいっぱい! まだ枯木立の桜たちもほのかな香りを楽しんでいるのかな。
1月も半ば。
新年の誓いが、
そろそろ日常の中に埋もれてしまった人も多いのではないだろうか。
頂く年賀状や年賀メールに、
よく新年の抱負や目標が書かれているけれど、
「今年も」「今年は」「今年こそ」。
この3つの違いは大きいと思う。
今年も…の場合は、現状維持もしくは現実肯定型というか、
このままでいいよね、というニュアンス。
今年は…の場合は、今までのままでも悪くはないけれど、
今年はもうちょっと頑張りたい、というニュアンス。
そして、今年こそ…の場合は、
毎年、願ってはいるもののなかなか叶わない夢や目標への、
新年恒例の意思表明というか。
対人関係を例にとると、
今年も相変わらずよろしく…と書くのは、
日常的におつきあいのある相手。
今年はもっと会うようにしましょう…と書くのは、
そこそこご無沙汰している相手。
そして、今年こそ再会を…と書くのは、
最後に会ったのがいつなのかかわからないくらい、
時間の距離が空いている相手。
もっとも、「今年こそ〇〇したい」が時に叶ったりもするから、
人生は楽しいんだよね。
今年こそ! ブログの更新頻度を上げよう(汗)
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JUGEMテーマ:日常
若手の人気女優さんが
人気グループの男性と入籍&妊娠というニュースが流れた。
ネットに書き込まれた多くの匿名コメントを見る限り、批判的な声が多い。
元ヤンキーだからやっぱりね。
次の主演ドラマが決まっているのに無責任だ。
彼女の立場を理解せずに妊娠させた男性も、大人としてどうかと思う。
事務所との契約違反じゃないのか。
たまたまのタイミングか、
明日は皇族の方の婚約発表ということで
テレビで皇室の方々の結婚当初の映像が流れていたが、
天皇陛下ご夫妻も秋篠宮ご夫妻も23〜25歳くらいで結婚されているのね。
一般人と特別な方々を同様に考えるわけにはいかないが、
20代半ばの社会人が結婚して子どもを産むことが、
赤の他人から批判される世の中って何かおかしいと思う。
ビジネスの側面から、
ペナルティーがあるのは仕方ないかもしれないけれど。
仕事のため、キャリアのためにと結婚出産を先延ばしにした結果が、
不妊治療、マタハラ、高齢出産、育児と介護のダブルケア…など、
さまざまな問題を生んでいる。
※「問題」と書いたのは、
いずれも手放しで歓迎できない一面を抱えている現象だからだ。
若い女優さんが、この先、母になって仕事が減って…。
その先のことはわからない。
もしかしたら、30歳くらいになったとき、
シングルマザーになって仕事に復帰するのかもしれない。
それでも30歳。なんだってできる。
キャリアのためにと、結婚も子どもも諦めて、無我夢中に進む人がいるのもいい。
でも、結婚したいから、子どもを産みたいからと、
若いうちにいったんキャリアを諦める人がいるのも、当然なことだし、
何も責められることではないとわたしは思う。
自分自身が20代半ばで子どもを産み、
その後、少しまわり道して今の立ち位置にいるから、なおさらそう思う。
結婚も妊娠も、自分にとって都合よくできるものではない。
それが、いつの頃からか、
自分の人生の軸を作るための?キャリア?というようなものが最優先になり、
そのあとで、結婚したければ婚活、子どもが欲しければ妊活すればいい。
そんな風潮が強くなっているのが、引っかかる。
人生は、いつだって自分の都合のいいようには回らない。
だからこそ、面白いと思うんだけどね。
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JUGEMテーマ:日常
個人的なことだが6月はいろんな記念日が集中している。
12日が父の命日、25日が今夫の誕生日、26日が前夫の命日、27日が前夫との結婚式。
そして今年の6月は1日に母親が高齢者施設に入所した。
ここ2年ほど仕事の量が増えて責任も増し、
もともと好きな仕事なんだけれども、
それでも、いっぱいいっぱい感はあった。
それと歩調を合わせるように
母親の老化が進み
(もう91歳だからあたりまえといえばあたりまえ)
ちょうど2年前から同居を始めたこともあり、
母にまつわる「すべて」が私に押し寄せていた。
正直、子ども時代の母親像について、
いい思い出と嫌な思い出を天秤にかけたら嫌な思い出のほうが多い。
父やその親戚を常に見下し、
自分の不遇さ?を常に他者のせいにする。
ひとり娘の私はそんな母親の愚痴の受け皿だった。
そんな状況から早く抜け出したい気持ちもあり、
24歳で結婚して夫の両親と同居した時、
なんて明るくて楽しい家族なんだろう! と思った。
世の中にはこんなにオープンでざっくばらんな家族、親戚関係もあるのだと驚いた。
その後、子どもたちが独立して前夫と離婚。
それから今の夫と再婚することになるのだが、
その時に、20年以上離れて暮らしていた母親と父親のことが頭をよぎった。
当時、彼らは70代半ばくらいだったか。
古くて狭い家で、しかし今思えば、
地域のコミュニティの中でそれなりに楽しく暮らしていた母親は、
「こんな古い家で死ぬのはいやだ。
もう歳だから夫婦二人の暮らしは心配だ」と私に何度も言い続けた。
その訴えを真に受けた?のが、
重苦しい10年のはじまりだった。
夫と私の住まいの近くに両親を呼び寄せ、
買物や病院通いは私が引き受ける暮らしが始まった。
それでも2年前までは別居していたし父も存命だったから、
今ほどの勢いで母親が私にのしかかってくることはなかった。
この2年間、常に同居している母親のことが頭から離れなかった。
当初はまだスーパーやショッピングセンター、美術館などに連れだし、
少しでも楽しい時間を過ごしもらおうと努力した。
そのうちに足腰も弱ってきて、
しかし愚痴や文句を言う口だけは老いることなく、
デイサービスにも難癖をつけていかない日が増えてきた。
仕事や何やかやで外に出ると、
帰りには、お菓子や雑誌など、母親が喜びそうなものを必ず買って帰る。
でも、ひとことふたこと話して、つじつまの合わない愚痴や文句を聞くと、
もうそこに居るのが嫌になる。
友達や夫と遊びに出かけても、
どこかで母親を置き去りにして、自分だけ楽しんでいるのが悪い気になる。
そんな罪悪感、全く持つ必要がないと頭ではわかっていても、
目の前に、若い頃と変わらない勝気な気質を持ち、減らず口を叩くものの、
若い頃とは比べる術もなく老いぼれた姿の母親を見ると、なんともいえない気持ちになる。
いつまでこの暮らしが続くのだろう…と考える頻度が、
知らず知らずのうちに増えていた。
幸いにして仕事は順調で、
自営業で年金が心もとない世代ゆえに、
60代半ばまではきちんと働きたいと思っていた。
しかし、このままでは自分が追い詰められてしまう。
まさか、自分がこ母親のことでこんなに蝕まれるとは思ってもいなかった。
母親が施設に入って一週間。
今のところ、施設の人たちを困らせている様子はない。
私のほうも、一日一日と心身が軽くなってきているのを実感している。
昨日、久々に訪ねた気功系マッサージ師の知人から
全身の関節がガチガチだったけど、
もう、ひとやま超えて新しいエネルギーが湧いてきているね。力強さを感じる。と言ってもらった。
今日は別件で、若い方とお話する機会があり、
育児や家族の問題が少し落ちついて、やっと自分の時間ができたという彼女に
「その時間を使って、今から、自分自身を取り戻すんだよ」とアドバイスをした。
そのアドバイスは、まさに私自身に言っていることだ。
愛し、憎しみ、罵りあった母親と自分のこの2年間の濃密な関係に、
ひとつのピリオドを打とう。
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JUGEMテーマ:日常
演歌歌手の藤あやこさんが
20歳以上歳の離れた(年下)男性と再婚するというニュース。
年齢差はさておき、お相手の職業がマッサージ関係?とか。
その記事の隅っこに、
松田聖子さんも以前整体師とつきあっていた。
身体に触れる職業の男性はモテるのか??の一文。
エステサロンを経営していた友人が
人は肌や髪に触れられると心をさらけだすのよ、的なことを言っていた。
ひと昔前ならそれはイケメンの美容師だったかもしれない。
キムタクが主演のドラマ「ビューティフルライフ」が流行った頃。(古い)
時は流れ、以前よりもストレスの多い現代社会。
仕事や家事で疲れている女性たちが求めているのは、
体の根本から癒しを与えてくれる整体師やマッサージ師なのかもしれない。
ちなみに、わたしは、知人の女性マッサージ師さんのお世話になっている。
彼女のところで雑談する時も、
「同業の男性はホントにモテるんだよね。なんでだろう〜」というぼやきをよく聞く(笑)。
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JUGEMテーマ:日常
連日マスコミを賑わせている森友学園関連のニュース。
個人的には、ひどすぎるこども園経営者のニュースのほうが心が痛むけれど。
話題の「文春」で林真理子さんが、
右系の人はキャラが濃くてフレンドリーだ、と述べていた。
籠池さんご夫婦を見ていると、本当にそう思う。
そして真実が何かはさっぱりわからないけれど、
このご夫婦の連係プレーというか、利害をも含めた信頼関だけはたしかだと感じる。
友人のご両親で、奥様がとにかくご主人を立てているご夫婦がいる。
「世間が黒といっても、父が白と言えば白という。うちの母ってそういう人なんだよ」。
友人は半ばあきれつつ、でもご両親への愛情を込めつつそう言っていた。
そして籠池さんご夫婦と真逆なのが、総理のご夫婦ではないか。
ご主人の社会的地位が高いから、一般の夫婦のような関係は難しいのかもしれない。
でも、例えプライベートでは仮面夫婦でも、
公の場ではうまく連携しているご夫婦は少なくない。
せめてもう少し、お互いを知るためのコミュニケーションがとれていれば、
問題がここまで悪化しなかったのでは?と思うのです。
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JUGEMテーマ:日常
※写真と本文は関係ありません。無造作にブリキのバケツに放り込んだ草花がすてき。
占いのご相談でときどき聞くのが、
おつきあいしている相手と連絡がとれない…というお話。
どっちを向いても携帯を操作している人ばかりの昨今、
それは「連絡がとれない」のではなくて、
相手が意図的に「連絡をしてこない」のです。
特に男性に多いように思うのだけれど、
彼女の存在が重くなったり面倒になると、
自分から連絡をとらずに自然消滅を狙うタイプ。
もちろん男性をそうさせてしまう女性側にも、
まったく問題がないとは言えないけれど。
誰だって気まずい思いはしたくない。
別れを告げた相手が納得するとは限らないし、
責められたり、泣かれたり、つきまとわれたら嫌だし。
でもね、そういう嫌な経験もちゃんとしておくことが、
後々の人生に必ず役立つし、
人としてのステージが上がるように思うのです。
ついでに言うと、
自然消滅を企てる男に限って、
彼女がその恋を忘れた頃に連絡してきたりする。
くれぐれも、それを喜んで受け入れないでほしい。
お互いの力関係がますます不均等になり、
女性とっていいことは何もないのだから。
偏差値の高い学校を出ていようと、
有名な企業に勤めていようと、
恋のひとつもきっちり終わらせることのできない男に未来はない(と、わたしは思う)。
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ドラマ「カルテット」の視聴率が高くないのは、
録画して気になるシーンをじっくり観る人が多いから…らしいよと
ヘアサロンの店長が言っていた。
昨日観た録画では、
満島ひかりさん演じるすずめちゃんが、
「私の好きな人が、その人の好きな人の顔を見ている時の顔がとっても好きで、
その人が好きだという人のことも好きなので、とってもしあわせな気分になれるんです」みたいなセリフ。
もちろん、無理して言っている感満載。
それに対してミッキーカーチスさん演じる勤務先のおじさまが、
「じゃあ、君の“好き”って気持ちはどこへいっちゃうの?」と。
テレビドラマでせつない気持ちになったのは、ものすごく久しぶり。
そう、最近ずっと「せつない」って感情を忘れてた。
負の感情かもしれないけれども、大切にしなくてはならない感情。そういう類のもの。
ドラマを観たあと、角田光代さんの「なくしたものたちの国」を読む。
恋愛がうまくいかなくて生霊になってしまった女の子が、
同じく生霊仲間?の男女と夜の歩道橋でおしゃべりをしている。
生身の身体ではなくふわふわとしている彼女たちは、
歩道橋の手すりに腰かけて足をぶらぶらさせながら、
眼下を走り過ぎる車の流れを眺めている。
そこへ若いカップルが階段を駆け上ってくる。
手にはパンや歯ブラシが透けて見えるコンビニのビニール袋。
ふたりは階段の途中で足を止めてキスをし、再び階段を駆け上る。
「あのふたり、恋がうまくいっているんだね」
それを見た恋愛不発組?の彼女、彼たちは
生霊になってまで、
今の恋愛にしがみついている自分に疑問を抱き始める。
“好き“がうまく機能している時、日常さえも非日常になる。
ふたりで歩道橋をわたる、コンビニに買物に行く、なんていうありきたりの行動さえ、
“好き”がそこを貫いていればこの上なく煌めく。
これは、カルテットの名セリフ「愛しているけど好きじゃない」にも通じるのでは。
よく恋愛カウンセラーなどが
夫婦や恋人との関係がマンネリ化したら、
ふたりで旅に行きなさい、外見的な女性らしさを取り戻しなさい…などの
処方箋を下すけれど。
“好き“もしくは“恋“は、日常さえも非日常にしてしまうのに対して
“愛“”は非日常さえも日常にしてしまう。
そこには抗えない何かがあるような気がする。
話はどんどん逸れていますが
「なくしたものたちの国」は
本棚に長く置いておきたい一冊になりそう。
JUGEMテーマ:日常
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JUGEMテーマ:日常
還暦もそう遠くない歳になってきた。
それとはまったく関係ないのですが、
いくつか抱えている仕事の案件で、
これはどうなんだろう?
声をかけてもらうのは嬉しいけれど、
果たしてわたしの能力が、
そのプロジェクトの成功に貢献できるか疑問だなぁ、と、
思うものもあり。
もっと平たく言うと、
各々のプロジェクトの代表者の意識や考え方に
どうも納得できない部分があり、
このまま進んでいっても、
自分の労力に対して望むほどの報酬が得づらいだろうなぁ、という思いがよぎるから。
個人事業主が、
このご時世に仕事を選ぶなんてとんでもない。
オファーがあればなんでも引き受ける、というスタンスの人もいる。
わたしも仕事を選ぶほどの立場ではないし、
夫に養ってもらって優雅に暮らせる身分でもない。
いつまで続くかわからない人生の残り時間を
安心して過ごす保険として、健康・仕事・ネットワークは不可欠だ。
でもでも。
仕事の内容と最終目標、関わる人たち考え方、費やすエネルギー、報酬、
そして自分自身のコンディション。
そんなものをぐるっと客観視しつつ、仕事を引き受けるようになってきた。
これが年の功ってやつかしら?
何よりも、バランスを優先するようになってきた。
で、結局あれこれ考えて、
疑問を感じる仕事であれども、
できる範囲で全力で頑張らせていただこう!と、
ぐるっと回って元の位置に着地している、かんじです。
※写真は本文とは無関係。好きなフラワーショップさんのディスプレイから。もうすぐバレンタインデーですね。
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JUGEMテーマ:日常
年明け早々、
「高齢者」として括る年齢を現在の65歳から75歳!に引き上げて、
65歳〜75歳を「準高齢者」扱いにするという案が検討されていると、
新聞の一面に載っていた。
要は70歳くらいまで元気に働いて、
自分の面倒は自分でみてね、ってことか。うーん。
高齢化は仕方ないとしても、
少子化はなんとか食い止めてほしいと切に願うこの頃。
年末に行政の仕事で、
仕事と育児を両立中の30代ママたちや、
それを支援する40〜50代上司たちを何社か取材した。
高齢親の介護に追われて、
しばらく頭の中がシニアの課題に偏っていたけれど、
久しぶりに30代の働くママたちと接してその頃の自分の姿が重なった。
今年は、若い世代の応援に頭のスイッチを切り替えていきたい。
一方、50歳時点で結婚していない人を基準にした生涯未婚率も、
年々高まっているという。
結婚「しなかった」のか「できなかった」のか。
どちらの表現をするかは各々の事情にもよるけれど、
個人的には、結婚は「自転車に乗れる」とか「逆上がりができる」
みたいなもんだと思う。
結局、自転車に乗れなかった、逆上がりができなかった、
でも暮らし向きに特に不便はない…というようなニュアンス。
ちなみに自転車も逆上がりも、
ある程度の年齢までに習得しないとなかなか難しい。
生涯独身の人が増えてそれで潤う市場もあるし、
既婚者の離婚や不倫もよくある話なので、
結婚していても、していなくても、どちらにも一長一短がある。
ただ、独身を通す人たちや子どものいない人たちが、
何らかのかたちで次の世代を担う子どもたちを、
育てることに関われたらいいんじゃないかなと思う。
日本では養子や里子の制度がとてもハードルが高く、
社会的にもあまりポジティブに捉えられていない。
だから、なんとしても自分の子どもをと思う人が多いのだろう。
でも、そればかりにこだわらなくてもいい世の中になったら…。
新年早々、まとまらない雑感でありました(汗)。
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地元FM局のイベントに生出演させていただきました。
人気MCの方を、その場で生占い!するという企画。
たまにテレビにも出演させていだたきますが、
タロット占いはとにかくぶっつけ本番。
リハーサルどおりにカードが出せるわけじゃないので、
いつもカフェで占っているように、
お相手の雰囲気や無意識を感じながらのカード展開となります。
今日はMCの方のトークがとても上手で
リラックスしながらお話ができました。
いい機会をいただき、ありがとうございました!
☆
ところで、個人鑑定の占いは予約制なのですが、
お申込みのお電話を受けたとき、
たま〜に、すごく急いでいる方がいます。
今からお願いできますか?とか、今日明日中に、とか。
そういう場合、その方が「冷静ではない」ことが多いです。
彼と初デートする、転職の面接に行く、など相談内容はいろいろですが、
冷静に考えれば、前日に占いを申し込まなくても、
もっと前に打診できるんじゃないかなぁと。
それができなかったということは、
あまり好ましくない「何か」があるんです。
そして、余裕がない時、切羽詰まった時に考えることは、
あまりいい方向に進まない。
そろそろ、手帳を来年度版に切り替えるシーズン。
既に分かっている予定は早めに書き込んで、
毎日、慌てて「何か」をすることのないように。
自分にも言い聞かせています。
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子どもたちが小学生の頃、家族で出かけた観光スポットへ
20年ぶりくらいに立ち寄った。
「ここ、子どもの頃、来た記憶があるよ」と娘。
子どもたちが成人した後、離婚し、元夫が亡くなり、
一般的な?家族としての継続行事がないので、
こういうところを訪ねる機会もなかった。
元夫も私もまだ30代だった。若かった。
家族4人、どんな車に乗ってどんな曲を聴いていたのかは、もう思い出せないけれど、
夏の青空や木々の緑、蝉時雨はあの頃も今も何も変わっていない。
四季の中で、いちばん、思い出スイッチが入りやすいのはやはり夏休みだと思う。
何年か経って、また、ここを訪ねられたらいいな。
今度は、娘や息子たちの未来の家族と一緒に。
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タイトルは今流行りの「ブラック」もの??
マザコン、モラハラ、DVなど
恋人、結婚相手として避けたい男性のタイプをわかりやすく分類している。
未婚の若い女性向けに書かれているようだ。
占い相談にいらっしゃる女性の中には、
それこそ、この本の項目に当てはまるタイプとつきあい、悩んでいる方も多いので、
そんな方にはおすすめの一冊。
もちろん、この彼氏は不良物件だから別れよう…なんて
そんな簡単に割り切れないだろうけど。
世の中は、白と黒だけじゃなくて無数の色のグラデーション。
だから、傍から見たら真っ黒クロスケ?みたいなパートナーと
案外、うまくいっている女性もいるはずだ。
それにしても「ブラック」って言葉、だいぶ市民権を得てきた。
企業、バイト、彼氏…ときて、やがて「彼女」版もできそうだ。
公私ともに、自分が「ブラック」該当者にならないように、気をつけなくちゃ。
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今日からリオオリンピック。
だからというわけではないけれど、
世界の「今」を知るのに興味深く読めた2冊。
●「絶対貧困 世界リアル貧困学講義」石井光太著
世界各地の様々な問題が浮上している昨今に、
この本はとても印象に残った。
世界人口約67億人のうち、
1日をわずか1ドル以下で暮らす人々が12億人もいるという。
だからといって、彼らの生活を「可哀想」「気の毒に」…
という画一的な視点だけでは捉えていないのが作者の凄いところ。
彼らは逞しく稼ぎ、恋をし、子どもを産み育てている。
そんな現実が淡々と描かれている。
売春婦の人種にもヒエラルキーがある、物売りと物乞いの違いなど、
びっくりするような事実も多かったけど、
驚くこと、知ることから、始まる何かがあるのではないかしら。
もう一冊は
●「990円のジーンズがつくられているのはなぜ?
ファストファッションの工場で起こっていること」
長田華子著
世界の縫製工場といわれるバングラディッシュの実情が
わかりやすく書かれている
手先が器用でまじめなバングラディッシュの女性たちは
月給4,000円でH&M、GAP、ユニクロなどの服を作っている。
劣悪な環境で働く彼女たちが可哀想、
だからこれらのブランドの服を買うのをやめよう、というのではない。
服が売れなくなれば、彼女たちの生活も困窮してしまうのだ。
そしてこれらの大量生産された服は、
大量のゴミと化してそれも社会問題になっている。
安価な服を気軽に買う、次から次へと買い替える。
そんなライフスタイルを見直す必要もある。
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